ゲハジは別に犬死でいいじゃない。

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遅ればせながら映画『ダークナイト』(The Dark Knight)をレンタルDVDで鑑賞。

大抵期待の大きい作品は満足度が反比例するものだが、今回は例外。クリストファーノーランにしてやられた。プロット、映像、テンポその全てが素晴らしい。

犯罪のはびこる街ゴッサム。人々はバットマンに一縷の望みを托していた。一方暴力に寄らず、正義を遂行としようとする、検事ハービーデント。バットマンことブルースはハービーこそ街を救うヒーローとなるべきだと考える。だが、悪の権化ジョーカーは正義をあざわらうように市民を人質にバットマンとハービーを陥れるべく動き出し、ブルースが(ハービーも)愛するレイチェルにその毒牙を向ける。バットマンは彼女を救えるのか。

悪を描いた最高傑作と評される今作。究極の悪とは何かが見事に描かれている。と言いたい所だが、本当の悪はレイチェルのような気がしてならないゲハジである。大して美人でもないのに、二人の誠実な美しい男性の愛を弄ぶあの女こそ絶対の悪に違いない。

冗談はさておき、悪とはなんぞやという問いを抱える私にとってジョーカーの示す悪は非常にナチュラルに受け取れるものであった。絶対的な悪とは何にも支配されないという状況でしか存在し得ないのだ。ジョーカーは自らの死も、金銭に対する欲望も、ましてやモラルのどれにも支配を受けない。そして絶対的な悪は孤独でもある。登場シーンで仲間?を躊躇せず消していくジョーカー。これこそ悪だ。悪の華だ。lonly days。絶対的な力は妖しい魅力がある。保身を考えるマフィアや市長より美しく見えるのは間違っているだろうか。間違っている。

悪とは多数決の問題でしかないのかも知れない。或いは価値観の彼我の高低差に生じる流れのようなものなのかもしれない。ジョーカーの行為もジョーカー自身にとっては悪にはなり得ない。ジョーカーと同じ価値観を持つものがいるならば、その物にとって彼の行為は悪とならない。聖書で言う所のサタンの行動ですら、サタン界においては善行にしかなりえない。だから人類は共通の価値観を持ち、人類みな家族や兄弟となればそこに悪は存在しづらくなるかもしれない。それもあまり気持ちの良い発想ではない。意味が分からない。

また、この映画のプロットでは善なる者が容易に悪に転落しやすいかも描いている。別の言い方をするならば、人間の寄って立つモラルの根拠の浅薄さが描出されているのだ。

とは言え、人間の持つ善なる力もささやかに描かれる。ジョーカーによって、囚人と一般人が互いを殺す事の出来る起爆装置を与えられるが、お互いにそれを放棄する。この部分は私には唯一リアリティが感じられない場面だった。

幼い頃の私ならこの映画を見て、病院爆発で亡くなった人やカーチェイスで巻き添えなった人に思いを致したのだろうが、もはや爆破シーンの妙に関心するばかりで何の感慨も抱かなくなっている自分を淋しく感じた。

御粗末。
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